「経営の腑」第416号<通算731号>(2025年2月14日)
新入社員を育てるには 〜理想共有する経営に〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第15回目 2010年4月5日)
いよいよ4月、新年度が始まった。史上最悪ともいわれる現下の厳しい雇用環境の中、新社会人の初々しい姿を見かけると、俗世のあかにまみれた私でも、つい頬が緩む。
こうした前途ある人材は社会の宝。「人は石垣、人は城」ともいわれ、経営と人材とは切っても切れない関係にある。そして、かつてわが国では、終身雇用制が企業文化・ノウハウの継承に果たした役割は大きかった。
だが、はき違えられたグローバル化やコスト主義に毒されたマネジメント病のまんえんとともに、日本企業の特長だった終身雇用制の崩壊が進み、人的資源をめぐる企業の姿勢は今や混乱の極みとなっている。
また、人材育成や教育というと、すぐに外部に依存する手合いも多いが、上杉鷹山から山本五十六の流れである「やってみせ、言って聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、人は動かじ」の語録に代表されるように、部下は上司の姿に学ぶものである。
ただし、中小企業では「後ろ姿を見て覚えろ、盗んで覚えろ」と部下に一方的に責を負わせがちだが、これは不公平だ。後述の通り、社長がわが社の将来像を明示することの方が先だ。
ところで、ちょうど二年前に出版された「日本でいちばん大切にしたい会社(坂本光司著)」では、従業員の7割が知的障がい者の企業などを紹介し、「会社が一番になすべきは、社員とその家族を幸せにすることである」と述べる。
そして「自分が所属する会社に不平と不満・不信を抱いている社員が、どうしてお客様に感動的な接客サービスができるでしょう?」と説いている。
いわずもがなだが、人間は機械と違い「血が通っている」ことを忘れてはならない。人間には意志があり、機械のように、単に潤滑油と燃料を供給すれば動くわけではない。むしろ、動機づけられれば、少々燃料不足気味でも動くことさえある。
ここで大事なことは、動機づけの意味を取り違えないことだ。その本当の意味は、社員の顔色をうかがうなど次元の低いものではない。ここを間違うと、現象面に目がくらみ本質を見落とす、いわゆるマネジメント病の初期症状におちいる。テーラーの科学的管理法以来、欧米発の方法論が針小棒大に扱われ、経営と無縁のかぶれた学者や我田引水コンサルが増長させた「内部管理」偏重のお遊びマネジメント論は、現実の事業経営には百害あって一利なしだ。
そうした経営に関する誤解へのコメントは、本欄の趣旨とはいささか異なるので別の機会に譲るが、最も重要で本質的な社員サイドの欲求は何かというと、「一生を通じての生活の安定と向上」(一倉定氏)である。
前回も述べた通り、社長の仕事である「決定」と、社員の仕事である「実践」のベクトルを合わせること、すなわち、社長がわが社の進む方向性を明示し、そこに社員が自分の人生の安定と向上のイメージを重ねながら、社業繁栄に共にまい進することこそ、最大の動機づけとなる。
ここに至って、社長と社員は理想的に均衡し、社員個々がレベルアップすべく自己啓発に目覚め、切磋琢磨の実践システムに魂が入いる。
前掲の「日本でいちばん大切にしたい会社」たる企業では、この未来志向の仕組みのもとで人材が自ら育ち、好業績を継続している。
遠回りのようだが、優れた経営を目指すのであれば、トップが社員の人生に思いをはせ、雇用形態も踏まえたまっとうな能力アップを推進し、企業の継続要件である経済的成果の獲得に注力するほかに道はない。
それが、先輩社会人として「社会の宝」である新入社員に対する、相応の責任の果たし方でもある。
出典:岩手日報「いわての風」(2010年4月5日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第417号<通算732号>(2025年2月28日)
景気論議は無用の長物 〜経営者は実業地道に〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第16回目 2010年7月18日)
今回の参院選の結果、再び衆参はねじれとなった。これは、まぎれもなく全国の有権者の一票の積み重ねだから、当のわれわれ負託者にもしばらく見守る覚悟が必要だ。
今回も争点の一つとして、マスコミは「景気対策」を取り上げ、各候補者もそれぞれ練りに練った?景気浮揚策を訴えるーという構図で、選挙戦が繰り広げられた。
しかし、この的はずれでむなしい論議には、いつもながら閉口させられる。景気論議は世界的大企業には若干関係あるが、中小の個別事業者には何の意味もないばかりでなく、時にミスリードされ、責任転嫁という毒薬にもなりかねないからだ。その警鐘の意味で、以下3点からひもとくことにする。
まず一つ目に、景気と個別中小企業の経営状況は直結しないという事実が挙げられる。
統制経済ならいざ知らず、自由経済下において景気浮揚による個別企業支援は不可能である。
その証拠に、行政府が旗を振る産業分野の中ですら、業績がすこぶる好調な事業者もあれば、意に反して廃業を余儀なくされる会社もある。
もっといえば、いくら好景気でも3割ほどの企業は赤字だし、逆に今のような厳しい景況でも2割以上の企業は立派に黒字決算をしている。この事実は、景気動向と個別企業の経営状況は直結しないという証左であり、事業経営者にとって景気論議は無用の長物であるということだ。
二つ目は、中立公正を第一義に求められる政治や行政が、自由競争下の経済活動に関与するのは、明らかに無理がある。事業活動の本質は「市場における、お客様の取りっこ」だ。事業存続の原資であるお金を払ってくれるのは、他ならぬお客様であり、政治や行政がいくら躍起になっても、お客様自身が価値を認めなければ、それは経済活動になり得ない。
そして、高度経済成長期でもなければ、1社の売上が増えれば、他社の売上が減るというのがまぎれもない現実なのだ。そうした中、一部の事業者の肩を持つことが公的セクターの中立性を損なうのは明らかで、腰が引けるのは当然だ。
三つ目は、行政府は市場を統制できないからだ。
先日コラムニストの西岡幸一氏が、アメリカ開拓時代の例を引き、「米国のゴールドラッシュで成功したのは金鉱を掘り当てた者ではない。金鉱堀りの衣服を手掛けたリーバイスや輸送・通信サービスを提供したウェルズ・ファーゴなどだ」と解説していたように、市場の需要は政府の思惑を意に介さないのだ。
以上、景気論議は個別事業経営にとって「虚」以外の何物でもないことを述べた。景気談義は事業経営とは無縁のエセ評論家に任せ、以下では事業経営者がなすべき道に論点を移そう。
経営者はその役目を「景気がどうなるかを探ることではなく、経営をどうするか決定すること」とわきまえ、わが社の経営に徹することだ。
特に大事なのは、世の中の漠とした不特定多数に関心を持つのではなく、もっぱらの関心をわが社のお客さまに集中させることである。そこが、わが社の将来的な継続を約束してくれ得る大切なよりどころだから、何をおいても最大の関心を払わなければならない。そのお客さまに対し、正しい奉仕を提供して正しい報酬をいただけるよう、自助努力を地道に続けることが、わが社の将来が約束される唯一の道だ。
事業は実業であり、虚業ではない。わが社の事業リーダーである経営者たるもの、ゆめゆめ「お上」や「景気論議」に惑わされることなかれ! わが社の経営に集中し、わが社員を守るという確固とした姿勢で実践励行する経営者が当地で増えること。それが、私にとってもこの上ない喜びである。
出典:岩手日報「いわての風」(2010年7月18日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第418号<通算733号>(2025年3月14日)
行政のなすべきことは 〜見識と能力の発揮を〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第17回目 2010年10月31日)
かの事業仕分けで、耳目の集まった国の省庁の関連機関。その存在意義は、行政本体の弱点とされる機動性や柔軟性の不足などを補完し効率を上げることのようだ。
しかし、そもそも行政目的そのものがなすべきことでなかったり、的外れだったりするのであれば、どんなに効率を上げても、肝心の効果(ここでは、国民生活の安定と向上)は期待できない。
これは国政に限らず普遍の原理原則であり、「戦略の過ちは戦術でカバーできない」のだ。
本県でも前知事の置き土産とやゆされつつ、しかし現実の問題として、NPOの不祥事、建設談合、競馬、森のトレーなどが、住み続ける県民には厳然と重くのしかかっている。限られた紙幅では、このすべてを論ずることはできないが、少しでもその真因に迫り、今後の県民生活に生かす方向を探ってみたい。
まず、戦略視点で「NPO」を取り上げる。
報道によると、フィリピンでは第2次世界大戦の日本軍戦死者の遺骨と称して、現地人の墓所から盗掘がなされているという。「ボーンビジネス」と呼ばれ遺骨がお金でやり取りされている、という関係者の証言は衝撃的だ。
国家の大方針で犠牲になった戦死者の亡きがらは、国家の責任で最後まで対処すべきであることは論をまたない。それを、民間のNPO組織に丸投げしているという実態があるようで、そのことが拙速でずさんなやり方を助長しているという指摘もある。
いずれにせよ、戦略面からすれば、行政が本来担うべきものならば、直轄で徹底対応すべきだし、そうでなければ中途半端に手掛けないことだ。
まさに後段のケースに、昨年来県内を騒がせているNPOの不正事案が当てはまる。
この種の事業では多くの場合、発注者である地方行政は霞が関がつくるメニューを次から次と押しつけられる。すると、余計な(つまり、こなし切れないやっつけ)仕事なわけだから、その対応のため、官民連携などという都合の良い美辞麗句をタテに、丸投げ先を探すことになる。
そして目先の利いた受け皿があれば、飛びつく。俎上のNPOの肩を持つわけではないが、行政として、果たして手掛けるべき事業だったのか、易きに流れなかったか、猛省すべきである。
さらに、指定管理者はじめ委託先の決定に際しては、必ず第三者的な委員が招集されて選考が進められる。当然ながら、就任委員も選定した事務局も、委託先の不祥事として人ごとにせず、真摯に反省し本来の在り方を再確認すべきだろう。
次に、戦術視点からの「建設談合」である。
日常生活でモノを買う際に、それを値踏みするのは購入者で、販売者に購入決定の権限はない(ただし、売らない権利は有する)。当然、公共工事の価格設定も、発注者である行政が主体的になすべきで、かつて他県で採用したような安ければ安いほど良いという無責任な値決めは許されない。
物件の品質性能の確保に妥当な金額をはじく方策は、業界に依存せずとも幾らでもある。
実施主体の見識と専門部門の能力を発揮しているという点で、本県などが現在実施している最低価格設定方式は評価できる。業界に責任転嫁することなく毅然とした発注業務がなされるよう今後も精進願いたい。
今回は毎度の経営談義と違い、一県民としての独白だが、行政の役割である「住民の生活基盤の安定と向上」に照らし、余計な事業は思い切ってやめ、なすべき事業に集中する。そして、やるべき事業は、専門性を磨き徹底した効率化を図る。
そんな地域行政の姿を願うのは「無理筋」だろうか。
出典:岩手日報「いわての風」(2010年10月31日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第419号<通算734号>(2025年3月28日)
戦略の誤りは戦術でカバーできない 〜問われる社長の度量〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第18回目 2011年2月20日)
啄木の「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る」に共感する向きは少なくない。
そんな中、もう20年以上も昔のことが鮮明に思い出される。
当時中小企業の事業所責任者として、国内業界最大手のメーカーと共同でプロジェクトを頻繁に進めた。先方のメンバーは上場企業のエリートたちだったが、実務能力については、地方の高卒が多いわが方の社員もまったく遜色はなかった。
ところが、当方社員が得ている給料と、かのエリートたちのそれとは雲泥の差があるという事実に、分かってはいたものの、あらためてがくぜんとしたものだった。
そんなことが重なり、その原因はどこにあるかを追求し始めた。そして「戦略の誤りは、戦術でカバーできない」ということに気づいた。そして、役員として戦略面の見直しを社長に進言した結果、事業所責任者の小職の年俸をはるかに上回る報酬を社員に出せる体質に改善するに至った。
まさに、中小企業の戦略面の脆弱さ、それゆえに中小企業者の勤勉さが報われない努力におとしめられているという事実と向き合い、戦略を見直し実践した結果だ。
当時の状態を大げさにいえば、太平洋戦争という勝ち目のない戦争に突入した戦略上の誤りは、いかに優秀な兵士や高等戦術をもってしても、不利な状況を覆せずに取り返しのつかない代償を払うことになった、あの歴史的事実と重なる。
平常の上場企業や役所などの大組織では、程度の低い経営者でも規模の効果で補完されることから、ある程度信ぴょう性の高い戦略のもと、構成員は自らの役割の範囲で業務を全うすることと自分に配分される利益は相関するという安心感のもとにあるので、こうした問題意識は持ちにくい。
片や、混迷する中小企業の多くは、戦略の定まらない中で戦争しているようなもので、社長のピント外れ?の号令で社員を戦死の危険にさらしている例も見られ、自然と社員は切実な問題として体感せざるを得ない。
たとえば、どう工夫しても採算の合わない仕事を、社員が爪に火をともして一生懸命対応しているようなケースだ。これを続ける限り、延々と赤字が積み上がっていくだけで、企業にも社員にも希望も未来もない。
戦略責任者である社長がなすべきは、いかに事業を継続するか、そのためにどう適正な経済的成果を確保するのか、それにはどんな商品やサービスをどこに提供すればいいか、という戦略部分を決定することである。
真面目に励む社員に報いるには、社員に戦術力の向上を要求する前に、まずは社長自ら的確な売り先を決め適正な値決めを実行することだ。
わが県民性として「もうけ方が下手」といわれるが、当地の経営者にとって、これは決して美徳ではなくむしろ屈辱ととらえるべきだ。
少なくとも、自社の創意工夫の結果で獲得する「顧客の要求を満たした報酬金」は、「暴利」とは全く異質なことくらいは、経営のイロハと心得たい。
現に、直近期における社員1人当たり年間経常利益額は某上場企業が9千万円を超える一方、中小企業では黒字企業全国平均でも50万円台だ。
ここ十数年、「来る者拒まず、去る者追わず」で地域企業経営の応援をしてきたが、戦略を吟味する勇気と、直言を受け入れる謙虚さを社長が持つか否かがキモで、これをよりどころにおおかた使命を果たしてきた。
厳しさを増す経営環境は戦術面の手練手管で乗り切れないのは明白だ。それゆえ、社長のこの姿勢が担保できなければお互い時間の無駄になるので、冷たいようだが一切関与しないことに決めている。
出典:岩手日報「いわての風」(2011年2月20日)寄稿記事へのリンク
「経営の腑」第420号<通算735号>(2025年4月11日)
独り相撲のブランド店 〜市場見極めこそ経営〜
出典:岩手日報「いわての風」寄稿記事(第19回目 2011年7月24日)
未曾有の大災害発生から4か月たった。いまだ不自由な生活を余儀なくされておられる方々も少なくない。
そうした中、山積する課題を乗り越え、店舗や事業所再起の報には、「なでしこジャパン」の快挙同様、大いに励まされる。
被災地の皆さまは、再起した仮店舗などから自由に品物を選べる喜びをかみしめておられよう。
朝市や産直、さらには移動販売車なども大活躍だ。非常時の一筋の光明となっていることだろう。
事業者の方々にとっても、商売をやっていて良かったと思える至福の瞬間だと思う。地域の顔見知りのお客様に求められての再開だから、まさに商人冥利に尽きる。
一方、先月Tさんと面談した折のことだ。Tさんはここ数年間、内陸の商店街活性化のため個店の相談業務に熱心に携わっていた。家庭の事情で転居離任するにあたりあいさつに見えたが、心配な店舗があるという。
その店は、中心街の物件を押さえるため半年間カラ家賃を支払った後オープン、海外ブランドを専門に扱っているという。さらに念の入ったことに、このブランドは、市内のアチコチで見かけ大手資本の当地の店でも陳列され珍しくない。とどめは同じ通りで同業者が閉店激安セール中だ。
Tさんは頼まれたわけではないが、仕事柄気になるので、時々その店の様子を確認しているけれど、当然お客様の入りもはかばかしくない。
資産家を親に持ち遠方に住む店のオーナーは、店員任せでたまにしか店に来ず、他人の助言など聞く耳持たずだから、とても心配なのだという。
Tさんの気持ちを少しでも軽くできればと、私は以下のような話をした。
事業経営にとって最も重要な市場というものを捉える際、何を置いても「需要と供給」の現況を踏まえる必要がある。
先の被災地の仮店舗等の例では、潜在分も含め需要が明確な中での供給再開であり、買い手側の要求に対して売り手側が適時に対応することで、まことにスムーズな需給関係が成り立つ。
支援物資の諸問題を別にすると、一般的に非常時は供給不足であり、場を設けられるかどうか自体がビジネス上の優劣を決めることになる。つまり、質や量よりも場作りのスピードが優先する。
同様に、かつての高度成長期の日本や今の中国も、増大する需要を背景に、まさに「場の提供」「品物の確保」がビジネス上の最大の要点であり、そこに「モノさえあれば売れる」という伝説も生まれるのである。
しかし、時がたちいろんな「場」が増えだすと、今度は買い手にとっての関心事は、もっぱら品物の良しあしや価格、さらには品揃えなどの、いわゆるQCD(クオリティ、コスト、ディリバリー)へと移り変わっていく。
こうして市場環境が変化しているにもかかわらず、前述の海外ブランド店のように陳腐な商材に勝手に固執し、一等地に「場」を設置しただけでは、QCDどれをとっても何の取りえもない。
お客様の要求も確かめず、独り相撲を取っているようなもので、まさに蚊帳の外である。
冷徹なようだが、ビジネスの本質は「市場でのお客様の取りっこ」である。これを踏まえ、いかにしてお客様の関心を当店に向けさせられるかを経営者は四六時中考え続けねばならない。
それには、経営者自らが、移り気なお客様と市場環境をしっかり観察し続け、お客様の教えを試行し、良かったら続け、違っていたら変えてみる。そんな地道な努力を続けることからしか、お客様の支持は得られない。
Tさんはしきりにうなずかれていたが、いつかどこかで、この転居のはなむけ話が役立てば、これに勝る幸いはない。
出典:岩手日報「いわての風」(2011年7月24日)寄稿記事へのリンク