Sekiyan's Notebook グローカルニュース〜経営の腑

セキやん通信「経営の腑」


第331号“権限は上役から獲得するもの”<通算646号>(2021年11月12日)

第332号“権限を委譲するのは部下に仕事をさせるためではない”<通算647号>(2021年11月26日)

第333号“責任の範囲は明確にできない”<通算648号>(2021年12月10日)

第334号“統制の限界は部下の数ではない”<通算649号>(2021年12月24日)

第335号“同質的な作業割り当てという亡霊”<通算650号>(2022年1月7日)

「経営の腑」第331号<通算646号>(2021年11月12日)

 権限は上役から獲得するもの  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 責任権限に関する方程式は誤りであり、上役があらかじめ権限をあたえるようではダメであることはわかった。だから、もう権限があるとか、ないとかの議論に、たいせつな時間を空費するのはやめよう。そして、理屈ぬきで仕事しよう。責任を果たそう。
 しかし、だからといって、権限が何もなければ、じっさいに責任を果たすことができないことはたしかだ。進退きわまれり、いったいどうしたらいいのだろうか。
 職務を遂行するときは、権限の有無は考えずに、まず、責任を果たそう、仕事をやりとげようと決意することだ。決意こそ事をなすための原動力なのだ。
 この決意から生まれる行動の過程で、必ずいろいろの決定にせまられる。その一つ一つの決定の段階で、すでにあたえられている基本的な権限の範囲内で、それを自分が決定していいかどうかを考えてみるのである。
 そして、権限がないと判断したら(この判断がたいせつ)、具体的事項について、「これこれの権限をもらいたい」と上司に要求するのである。つまり、権限は具体的な事項について上司から獲得するものである。具体的なことならば、上司はそれについて権限をあたえるか、あるいは上司の責任で決定すべきかをきめられるのである。
 権限はあたえられるもの、という受身の態度ではなくて、積極的に上から獲得するという態度がほんとうなのだ。上司も、平素から部下にたいして、上司が部下に要求するのは結果である。上司の求める結果を実現する過程で、具体的に権限がないと判断したら、ほしい権限を申し出よ、という教育をしておく必要がある。われわれは、権限があたえられていないことを理由にして、責任をのがれることはできないのだ。
 では、なぜ、これまでにしなければならないか。その理由は、上役が前進するための時間を生みだすために、上役の仕事を部下が引きうけるのである。
 係長は課長の仕事をうばって課長をヒマにし、課長はヒマになった時間で、部長の仕事を引きうけ、部長は社長の仕事を代行して、社長が前進するための時間をもつことができるようにするためなのだ。部下は積極的に上司の仕事を奪え、それが部下のほんとうの任務なのだ。

セキやんコメント:    誰しもが大事な人生の時間を使って仕事をしている。それなら「待ちでなく、攻め」で行け、と一倉は叱咤激励している。すなわち、安楽を求める「待ち」は依存であり、結果的に安楽の人生にはなりえず。逆に、充実を求める「攻め」とは自律であり、充実の人生を送ることになる。

「経営の腑」第332号<通算647号>(2021年11月26日)

 権限を委譲するのは部下に仕事をさせるためではない  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 こんどは上役の立場から、部下に権限を委譲する(筆者は、このことばはあまりすきではない)ことを考えてみよう。
 「権限の委譲が、十分かつ適切に行われないと、企業目的を遂行するのに非常に能率が悪い」なんてのは、愚論である。あるいは、「部下を働かせるには、部下に権限を委譲しなければならない」などは、部下のために上役があるような口ぶりである。部下のために上役があるのではなく、上役のために部下があるのだ。本末転倒である。
 「部下のために」「部下は」「部下から」など、部下のことばかり考えていれば上役はいいらしい。下向け、下向けというのだ。たいせつなことは、下を向くことでなくて、上を向くことなのである。これからの組織論、管理論では、「上役のために」「上役は」「上役から」というふうに、上向きにならなければならない。“企業目的を達する”ためには、下を向くまえに上を向かなければならないのは、わかりきったことであるのに、なぜ、これがほとんど論じられないのであろうか。
 では、上向きの、そして前向きの権限移譲とはどのようなものであろうか。・・・それは、経営者(経営担当者も同様)が、前に進むための時間を生みだすために、部下に権限を委譲するのだ。これがほんとうである。
 前進する以外に、生きる道がないのが、企業の宿命なのだ。もしも、経営者が部下に仕事をまかせなければ、日常の仕事に足をとられて前進できない。前進するためには、部下に仕事をまかせる以外にない。部下が必要なのは、ここに真の理由があるのだ。
 社長は、前進する時間を生みだすために、部長に仕事をまかせ、部長は社長からまかせられた仕事を遂行するために、いままでの自分の仕事のうちの一部を課長にまかせなければならないのだ。課長も係長も、考え方は同じである。
 このように、順々に上から下への委譲があって、会社は前進できるのだ。
 ワンマン・コントロール(ワンマン経営者ではない)が悪いのは、むしろ上司がなにもかもコントロールすれば、その上司は、前へ進む時間をもつことができなくなるからであって、部下が仕事をしなくなる(これもほんとうの理由ではあるが)ということではないのである。このように考えることが、前向きの態度なのである。

セキやんコメント:    企業活動の本質は「お客様の要求を満たすこと」であり、それに向かって社長が方向性を定め、一致結束実行するのである。つまり、会社とは「社長の考えを実現するところ」で、そのために管理職はじめ社員が必要なのである。人間関係論に振り回され、本質を忘れてはならない。

「経営の腑」第333号<通算648号>(2021年12月10日)

 責任の範囲は明確にできない  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 「責任の範囲を明確に決めなさい」という主張には、誰も反対しないであろう。ところが、これがまたまた、責任のがれの伝家の宝刀として利用されているのが現実なのだ。
 この考え自体がまちがっているのか、解釈が悪いのか、悪用する者の罪なのか、考えてみることにしよう。
 いわく、組織を確立せよ、職務分掌をきめよというような、判で押したような答しかえられない。はたして、このようなものがあれば、責任の範囲が明確にきまるものでろうか。(中略)
 組織や職務分掌というものは、野球にたとえれば、守備位置と、わかりきった守備範囲をきめるようなものである。ただそれだけなのだ。それ以上の何ものでもないのである。
 いったい、どのような規定をつくったら、一塁手と二塁手の守備範囲を明確にきめられるというのか。その境界線に、あらかじめ線をひくことは不可能なのである。
 責任の範囲を明確にきめることは、一塁手と二塁手の守備範囲に線をひいて区分することが不可能であると同時に、不可能なことである。はじめから、できない相談なのだ。それをやれというのだ。現実ばなれの空論でなくてなんであろうか。
 明確にきめられるのは、あくまでも基本的な事がらのみなのだ。むろん、これは必要である。野球でポジションをきめ、標準的な野手の位置をきめるように、である。
 しかし、これだけでは現実の仕事のなかで問題なく処理できる事がらは、きまりきったくり返し業務だけなのだ。野球でいえば、野手の正面付近に打球が飛んだ場合のようなものだ。こんなときは、その野手だけがエラーしなければ何も問題とはならない。
 問題なのは、たとえば、一塁手と二塁手の中間に、どちらの守備範囲ともきめられないところに打球が飛んだばあいなのだ。このときに、守備範囲が明確にきめられていないから処理できない、と一塁手と二塁手がいったとしたら、監督はこういう選手はクビにするにきまっている。じつは、ほんとうにたいせつなのは、このような事態でそれをどのように処理するかである。一歩誤れば、ヒットにされるからである。会社の業績を低下させるからである。
 野球では絶対にゆるされないことが、会社のなかでは、「責任範囲が明確にされていなかった」ということで、公然と許される。いや、それをきめなかった経営者が悪い、上司が悪い、ということになる。
 これが、責任範囲明確化論の罪悪なのである。筆者は、自身の体験と職業がら多くの会社をみて、ヒシヒシと責任範囲明確化論の悪業のおそろしさを感じるのである。
 会社のなかの問題は、責任や権限を明確にきめられないからおこるのではなくて、明確にしたくともできない範囲におこるのである。では、いったいどうしたらいいか。
 一・二塁間に飛んだ打球は、両者とも必死になって、処理しようとする。それが両者のつとめだからだ。
 会社の仕事もまったく同じである。(中略)とにかく理屈は抜きに、生きるために協力しなければならないのだ。ひたすら、成果をあげるために行動しよう。たいせつなのは、“われわれの意志”であり、“決意”なのだ。

セキやんコメント:    一倉流の表現に「マネジメント病」というものがある。会社の「目的」である「お客様の要求を満たすこと」をおろそかにして、手法である「管理」を優先する本末転倒の姿勢を指弾する際に用いられるが、責任範囲明確化論もその愚の一つであるということを、賢明なる経営トップは知る必要がある。

「経営の腑」第334号<通算649号>(2021年12月24日)

 統制の限界は部下の数ではない  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 組織の原則に“統制の限界”というのがある。「一人の人間が監督できる部下の数はごく少数である」というのだ。これも根強く繰り返されている迷信である。
 その根拠は、グレイキュナスの定義(部下の数と人間関係の数の計算式)であろう。これでゆくと、部下の数が一人増すごとに、人間関係の数が急激に増加する。多くの人間関係を処理するのは容易なことでないから、7〜8人ぐらいが限度である、いや4〜5人が限度である、というような議論をしている。
 どうも、100とか1,000とかの数字(人間関係の数)にとらわれた議論らしい。
 われわれは、こんなものに惑わされる必要は少しもない。部下の数が11人から12人に1人増えると、人間関係が10,000以上増えるなんてことが、実際にはありえないことは、考えてみるまでもない。この計算は、“おこりうる組み合わせの数”を計算しただけにしかすぎないのであって、実際にはこんな関係が全部おこるわけではないし、また同時に発生するわけでもない。
 これらのうちの一部が発生するのであり、しかも発生したものが全部、実際の仕事に影響するわけではない。実際の仕事に影響するような人間関係は、部下の数が3人の部門が10人の部門より多いということもあることをわれわれは知っている。
 知っていながら、これに惑わされる。これが数字のトリックなのである。
 だいいち、部下の監督の難易は、部下の数だけでなく、多くの要因がある。部下の数だけを要因として取り上げること自体がナンセンスなのである。(中略)
 部下の数は、統制の限界ではなく、管理責任の範囲なのである。
 管理責任の範囲とは、“部下の者がそれぞれ自己の目標を達成できるように、指導し、監督できる範囲”である。これは経営担当者の能力や、部下の能力責任の大小など、さまざまな要因によって、大きく変動する。であるから、具体的な状況を調べずに、部下の数を云々することはできないのである。一般的にいえることは、管理責任の範囲は階層が上になるほど広くなっていくということだけである。(中略)
 われわれは、このようなバカらしい“統制の限界”などという亡霊に悩まされずに、“管理責任の限界”を考えて、部下の数をきめるという認識を持つべきである。
 そして、部下の数は少ないよりは、むしろ多めにするのがほんとうである。このようにすれば、階層が少なくなり、部課の数が少なくなって、組織がすっきりと風通しがよくなると同時に、上司は部下の仕事の内容にまで立ち入って干渉したり、部下の仕事を奪ったりしているひまがなくなる。いやでも部下に仕事をまかせなければならなくなる。
 もっとたいせつなことは、能力以上の重荷を負わされた経営担当者は、これをやりとげるために、大きな努力をしなければならない。そこに、すみやかな成長が期待される。もし、この期待に応えられないような経営担当者は失格である。そのような経営担当者をさらに上級の階層に上げることなど、思いもおよばなくなる。統制の限界論による上級の階層ならば、いまとたいして変わらず、なんとかやって行ける人も、管理責任がいまよりもずっと広範になる上級の階層には、とても上がれないことは、だれの目にもあきらかだからである。

セキやんコメント:    統制の限界論はすなわち、研究者による仮説に基づいた「単なる計算」を、「経営の実践の場」に無理やり適用させようとする典型的な例だ。日々目まぐるしく動いているシャバで活動するわれわれは、こうした机上の空論とは、決別しなければならない。

「経営の腑」第335号<通算650号>(2022年1月7日)

 同質的な作業割り当てという亡霊  一倉定著「マネジメントへの挑戦 復刻版」(原本:1965年刊)より
 これも、組織原則の亡霊の一つである。非常に多くの人々が、この亡霊に取りつかれて苦しんでいるにもかかわらず、それに気がついていないところが、亡霊の亡霊たるゆえんであろう。(中略)
 同質作業のみを集中すると、その作業自体の能率化ははかられる。しかし、個々の作業がうまくいくことと、仕事の流れがスムーズにいくことは、まったく別なのである。いや、逆に仕事の流れを乱すことになるのだ。仕事というものは、異質作業の連結なのだ。その連結を、同質作業なる名目によって、ズタズタに切りはなしてしまう。担当者がちがうと、その間は必ず連絡が悪くなる。これをよくすればいいというのは観念論である。これをよくするようにつとめたら、自分の仕事ができなくなる。現実とはそういうものなのだ。
 統合された一連の業務を担当させれば、横の連絡は、その業務に関するかぎり、不要になる。そのうえ、担当者は、自分の業務について責任をもつことができるし、業績の判定も容易にできるのである。一連の業務を統合して、それに責任をもつことによって、人は働く意欲も強くなり業績を判定されることをのぞむのは、人間として張りあいがあるからである。くり返していう。仕事の成果をあげるためには、統合された一連の仕事を担当させなければダメである。
 同質的な作業割り当てなどは、仕事の流れを無視し、人間性を無視した観念論にしかすぎないのだ。分業というものが、組織のなかで必要なのは論を待たない。要は、分業のやり方なのだ。仕事をやたらに分断してはいけない。どうしても、これ以上は細分できない一連の仕事――それは、担当者が仕事の成果に責任をもてるもの――がボーダーラインなのだ。
 けれども、もっとたいせつなことは、どうしたら、より大きな一連の統合された仕事をさせることができるかを、つねに考え、これを勇敢に実施していくことである。こうすることによって、人はますます責任を感じ、仕事の成果は上がり、その仕事の過程で能力の向上が期待できるのである。現場作業でも、最近コンベアによる分業が批判され、作業の統合が行われてきたではないか。
 さらに、別の面から、同質的な作業割り当ての罪悪をあげることができる。
 それは、“統制の限界”やライン・スタッフ論の考え方と合成されて、組織は細分化され、職能は専業化し、人員が増えていく。大企業ならともかく、中小企業では、管理部門の人員が加速度的に増加していくことは、ほとんど大部分のばあい、それは会社の業績低下につながる。
 いわゆる、管理部門肥大症である。
 中小企業では、一般論よりも、むしろ、どうしたら最も効率よく仕事をやれるかを常識的に考え、知恵をはたらかせることのほうがたいせつなのである。仕入れた知識を、ろくに考えもせずに採用していくのは、かえって効率を悪くするのである。

セキやんコメント:    最後の文節は、奇しくも小職が唱える「事業経営に『一般解』はない」と共鳴する。唯一存在するのは、「わが社の解」のみである。
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