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大慈山祥雲寺本堂大慈山祥雲寺本堂
田村家墓所田村家墓所
房姫像 房姫像
宗良像宗良像(祥雲寺蔵)
母子観音像母子観音像

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大慈山祥雲寺の歴史

祥雲寺の由緒

祥雲寺(臨済宗妙心寺派)は、岩手県と宮城県との県境に位置する一関にあるお寺です。
伊達忠宗公像大慈山祥雲寺というお寺の名前は、1682年に定められ、一関藩を治めていた大名家、田村家の菩提樹です。
開基は、仙台藩二代当主の伊達忠宗公(仙台藩初代、伊達政宗公の嫡子、次男)の側室であった房姫です。
開山和尚は、松島にある瑞巌寺の大機円応禅師であったといわれています。

伊達家と田村家

伊達家と田村家との関わりは、戦国時代までさかのぼって見ることができます。
東北地方を制圧して、その勢力を全国に伸ばそうとしていた伊達政宗公は、対抗する諸大名を意識して、坂上田村麻呂公を祖とし、福島県の三春地方を根拠としていた田村氏と、絆を深めることにいたしました。
田村清顕公の娘であった愛姫を正室としたのです。伊達家に嫁いだ愛姫でしたが、実家である田村家は、豊臣秀吉による小田原征伐に参加しなかったために、領地を没収され、お家断絶の憂き目にあってしましました。 実家が途絶えてしまったことを悲しんだ愛姫は、田村家の再興を遺言いたします。

再興田村家

伊達政宗公と愛姫との間に生まれた男子・忠宗公が、仙台藩二代藩主になりました。
この忠宗公の側室であった房姫が、祥雲寺の開基となる人です。 忠宗公と房姫の子である宗良公は、祖母である愛姫の遺言であった田村家の再興、これを果しました。
田村姓を継いだ宗良公は、幼君であった四代仙台藩主綱村公の後見役として、岩沼(宮城県)三万石の城主となります。 この再興田村家の菩提寺が、長谷山大慈寺(祥雲寺の前身)でありました。

伊達兵部と一関

四代仙台藩主綱村公には、もう一人、後見役が付いておりました。それは、伊達兵部宗勝であり、宗良公よりもかなり年配であった兵部に対して、宗良公は控えめな立場にあったと伝えられています。
保性院廟覆堂兵部と宗良公はともに後見役でした。後に、宗良公の子である田村建顕公(再興田村家二代、初代一関藩主)が、寛永十八年(1641年)頃から、寛文十一年(1671年)まで、一関三万石を治めた兵部の後釜として、一関に移封(天和二年、1682年)されたことは、奇しき縁ではありました。
兵部一族が四国などに配流されて、一族の菩提寺であった豊国寺は次第に荒廃し、明治の廃仏毀釈の煽りも受けて廃寺となりました。
同じ臨済宗である祥雲寺には、保性院(兵部の母)を祭った厨子(県文化財)を始めとして、豊国寺の墓石や遺品、仏具などが預けられています。

田村家の一関への移封

第二代仙台藩主、伊達忠宗公の子であり、初代仙台藩主、伊達政宗公の孫である宗良公によって、岩沼にて再興されて田村家ですが、歌舞伎や芝居などで知られる伊達騒動の結果、伊達兵部宗勝の領土であった一関三万石に、天和二年(1682年)に移封されることとなりました。
時の田村家の当主は、再興田村家第二代にして初代一関藩主となった、田村建顕公(伊達政宗公の曾孫)です。この移封の際、田村家の菩提寺である長谷山大慈寺も共に岩沼から移り、建顕公の祖母である房姫(祥雲院殿)を開基として、寺号を大慈山祥雲寺と改めました。
田村家顕彰記念館以来、既に三百二十七年が経ち、明治期の二度にわたる火事などによって、古くからの形を残す堂舎は、長谷観音堂と転輪一切経蔵、ならびにその覆堂のみになってしまいます。
しかしながら、現在の祥雲寺には田村家顕彰記念館(見学時には要予約)があり、貴重な文化財を所蔵しており、一関の昔を考える良い縁となっております。

一関には、日本で初めての樹木葬として全国に有名な「樹木葬の里」(商標登録済)があります。祥雲寺の別院として活動してきた「樹木葬の里」は、長倉山知勝院として宗教法人として認可されました。
今は、祥雲寺とは別の兄弟寺として、自然保護活動を行っております。
兄弟寺ですので、お互いを補完しあう関係にありますが、既に別個の法人でありますので、各種手続き、連絡等に際しましては、ご注意願いたいと思います。